新選組が正式に発足した3月13日は、「新選組の日」とされています。
幕末に駆け抜けた若き志士たちのゆかりの地をご紹介するシリーズの後編です。
こんにちは!manaです。
激動の時代にたった6年間しか存在しなかった新選組ですが、歴史上に強烈なインパクトを残していますよね。
新選組の中心を担った試衛館メンバー9人にスポットを当てて、ゆかりの地をご紹介します。
徐々に雲行きが怪しくなる新選組メンバーの運命。
旧幕府軍として闘った新選組メンバーの足跡を一緒に巡っていきましょう!
新選組年表
- ~1863年試衛館で剣術を磨く
近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南啓助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一
- 1863年2月浪士組に参加し入京
斎藤一を除く8名で上洛
- 3月13日新選組発足
壬生浪士組から新選組と名を改める
- 8月八・一八の政変
- 9月芹沢鴨襲撃
近藤勇が局長となる
- 1864年6月池田屋事件
新選組の評価が高まる
- 1865年2月山南啓助切腹
- 3月西本願寺へ屯所移転
- 1867年11月油小路の変
藤堂平助戦死
- 1868年1月鳥羽・伏見の戦い
井上源三郎戦死・近藤勇負傷
- 3月甲陽鎮撫隊として甲州へ出陣
永倉新八・原田左之助離脱
- 4月近藤勇処刑
- 5月原田左之助戦死
彰義隊として上野戦争に参加
- 5月沖田総司病死
- 9月会津藩降伏
斎藤一が会津に残留
- 1869年5月土方歳三戦死
箱館戦争
試衛館メンバーの近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南啓助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一の9人を中心とした年表です。
後編は、戊辰戦争の皮切りとなった鳥羽・伏見の戦いからご紹介していきます。
新選組ゆかりの地
鳥羽・伏見の戦い
徳川幕府による大政奉還が行われ、新政府によって王政復古の大号令が出されるという時代が大きく転換していました。
鳥羽・伏見の戦いでは、新政府軍の圧倒的な兵力によって旧幕府軍は撤退を余儀なくされました。
近藤や土方から絶大な信頼を得ていた試衛館メンバーの井上源三郎が戦死し、近藤勇が肩に銃弾を受けた戦いでもあります。
新政府軍は天皇から賜った錦の御旗を掲げたため、新選組を含む旧幕府軍は朝敵となってしまったのです。
朝敵となった事実に愕然とし、旧幕府軍のリーダーであるはずの徳川慶喜が江戸に逃げ帰ったことで旧幕府軍の士気が下がったことも敗北の原因とされています。
幕府を支えることで日本を守ろうとしていた新選組の立場が逆転してしまったのです。
旧幕府軍も新政府軍もどちらも己の道が正しいと信じて突き進んだ、悲しい戊辰戦争の幕開けです。
名称:鳥羽・伏見の戦い
住所:京都府伏見区
甲府城跡
鳥羽・伏見の戦いで敗退した新選組は隊員が多く逃げ出し、戦力が低下していました。
新選組は、東に進軍していた新政府軍(官軍)を止めるために、甲府に進軍することとなりました。
この際、幕府より甲陽鎮撫隊と名を改められたため、新選組という名は消滅してしまいました。
甲州勝沼の戦いでも、近代式戦法に不慣れな幕府軍から脱走者が跡を絶たず、わずか2時間で勝敗は決したと言われています。
試衛館メンバーであった永倉新八と原田左之助が方針の違いで離脱したのもこの時期でした。
名称:甲府城跡
住所:山梨県甲府市丸の内1-5-4
URL:https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/rekishi/kofujyou.html
近藤勇の墓所
甲州勝沼の戦いの後、江戸に戻った近藤勇や土方歳三らは会津行きに向けて隊を再編成していました。
官軍の追撃を知った近藤勇は、大久保大和と名乗り投降しました。(官軍によって捕縛されたという記録もあります。)
しかし、官軍にいた伊東甲子太郎一派の生き残りに近藤勇だと気付かれてしまい、板橋刑場で斬首されました。
新選組のカリスマであった局長は、なんとも悲しい最期を遂げることとなったのです。
名称:近藤勇の墓所(龍源寺)
住所:東京都三鷹市大沢6-3-11
寛永寺
近藤や土方と決別した原田左之助は、永倉新八とも別れた後は、彰義隊に加わり上野戦争に参加しました。
上野戦争で負った傷が原因で亡くなったとされていますが、実際のところ詳しくはわかっていません。
上野戦争で彰義隊が立てこもった寛永寺は、官軍の放火により壊滅的な状態となりました。
徳川家の菩提寺となっていたことから、明治政府により敷地を没収されるなど苦難の時代を迎えることとなりました。
名称:寛永寺
住所:東京都台東区上野桜木1丁目14−11
URL:http://kaneiji.jp/
今戸神社
今戸神社は、沖田総司の最期の地と言われています。
池田屋事件で喀血した沖田総司は、肺結核にかかっていました。
当時の肺結核は不治の病とされていて、隔離され療養生活を送らざるを得ませんでした。
鳥羽伏見の戦いの後、一旦江戸に戻った新選組に同行し、今戸神社の離れに住まいを移します。
近藤勇や原田左之助の死を知らされることなく、ただ一人ひっそりと最期を迎えたと言われています。
名称:今戸神社
住所:東京都台東区今戸1丁目5−22
URL:https://imadojinja1063.crayonsite.net/
鶴ヶ城
土方歳三や斎藤一は、松平容保のいる会津に向かいました。
戊辰戦争の中でも大きな戦いとされる会津戦争では、白虎隊や女性たちの自刃など悲しいエピソードが残されています。
鶴ヶ城は難攻不落の城で、会津戦争でも落ちなかったと言われています。
土方歳三をはじめとする旧幕府軍の残存兵は、箱館(函館)に向かいまいしたが、斎藤一は会津に残りました。
斎藤一は戊辰戦争後、警察官となり西南戦争に従軍し、東京高等師範学校で剣術を教えるなど72歳で生涯を終えました。
名称:鶴ヶ城
住所:福島県会津若松市追手町1−1
URL:https://www.tsurugajo.com/turugajo/shiro-top.html
五稜郭
会津戦争で敗北した土方歳三は、榎本武揚と合流してわずかな兵とともに蝦夷地へ向かいました。
箱館の五稜郭を占領し、新たな国家の樹立を目指しましたが、官軍の総攻撃に遭い陥落します。
土方歳三は箱館戦争で銃弾に倒れ、ここに新選組は終焉を迎えました。
名称:五稜郭
住所:北海道函館市五稜郭町44
URL:https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014011601161/
まとめ
名前を知らない人がいないほどに有名な新選組。
東京の道場で剣術を学んでいた9人のメンバーが、京都で新選組を結成し、幕府軍として最後まで戦い走り抜けました。
たった6年間しか存在しなかった新選組ですが、今でも人気があるのはメンバーそれぞれにストーリーがあるからだと思います。
どのメンバーに注目するかによって捉え方は違うかもしれませんが、若い青年たちのストーリーに心を打たれるのではないでしょうか。
ぜひ、ゆかりの地を訪れて、彼らのストーリーに触れてみてほしいと思います。
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