【日本の歴史巡り】人気No.1武将ゆかりの地に行こう!~織田信長編~

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日本の歴史上の人物で人気No.1の織田信長。

織田信長の生きた時代に沿って、ゆかりの地を巡ってみませんか。

こんにちは!manaです。

いつの時代も私たちのヒーローである織田信長の年表とゆかりの地をご紹介します。

信長の軌跡を辿ってみると、これまで気づかなかった新たな発見があるかもしれませんね。

ぜひ、訪れてみてくださいね!

織田信長年表

織田家家紋
織田信長年表
  • 1534年
    信長誕生

    織田信秀の嫡男として、尾張国・勝幡城で生まれる

  • 1547年
    初陣

    吉良大浜にて今川義元方と対陣し勝利

  • 1549年
    濃姫と結婚

    斎藤道三の娘を嫁に迎える

  • 1554年
    清洲城に移転
  • 1560年
    桶狭間の戦い

    駿河の今川義元を討つ

  • 1563年
    小牧山城に移転
  • 1570年
    姉川の戦い
  • 1575年
    長篠の戦い

    大量の鉄砲を使い武田勝頼を討つ

  • 1576年
    安土城に移転
  • 1582年
    本能寺の変

    明智光秀の謀反により自害

織田信長ゆかりの地

信長誕生

幼少期の信長像(勝幡駅)

織田信長は、1534年に信秀の嫡子として勝幡城で産まれたといわれています。

勝幡城は信長の祖父・信定によって築かれ、天守はなく館の周りを土塁や堀などで囲ったものでした。

のちに本拠地を清州城に移したため、次第に衰退し廃城となりました。

勝幡駅周辺には、勝幡城の推定復元模型と織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長像が立っています。

名称:勝幡城跡
住所:愛知県稲沢市平和町城之内地区(勝幡城跡)
URL:https://www.inazawa-kankou.jp/syobatajyo/

吉良大浜の戦い

碧南市

信長が元服を終えたばかりの14歳のとき、今川義元との戦いに大将として初陣を果たしました。

吉良大浜は現在でいう愛知県碧南市にあり、2000人の今川軍に対し800人余りで勝利を収めました。

風の強い日に先制攻撃を仕掛け、火矢を放って撃破したといわれています。

名称:吉良大浜
住所:愛知県碧南市

濃姫と結婚

岐阜城

信長が16歳の時、美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三の娘・濃姫と結婚します。

父・信秀と敵対していた美濃国の斎藤道三との和睦が成立したための政略結婚でした。

のちに、織田信長が稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から岐阜城を奪取することになります。

名称:岐阜城
住所:岐阜県岐阜市18
URL:https://www.city.gifu.lg.jp/kankoubunka/kankou/1013051/1005097/1005098.html

清州城に移転

清州城

信長が初めて入城した那古野城から移転し、約10年間本拠地とした清州城。

弟・信勝の暗殺や、徳川家康との清州同盟、信長死後の家督争いの清須会議など、様々なエピソードがのこるスポットとなっています。

現在の天守は、1989年に旧清洲町の町制100周年を記念して建設された鉄筋コンクリート造で、当時を想像して設計された模擬天守となっています。

名称:清州城
住所:愛知県清須市朝日城屋敷1−1
URL:https://www.city.kiyosu.aichi.jp/shisetsu_annai/kanko_shisetsu_sonota/kiyosujo.html

桶狭間の戦い

桶狭間古戦場公園

駿河や遠江、三河を支配していた今川義元が、大軍を率いて尾張に侵攻してきました。

数千人程度しかいなかった信長軍は、桶狭間に陣を敷く今川軍に強襲をかけ、今川義元を討ち取りました。

桶狭間古戦場公園のある一帯は今川義元最期の地と言われていて、織田信長と今川義元の銅像が設置されています。

名称:桶狭間古戦場公園
住所:愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目1001

小牧山城に移転

小牧城

桶狭間の戦いの後、今川氏より独立した徳川家康と清州同盟を結んだ信長は、美濃攻略のため本拠地を小牧山城に移します。

標高86mの小牧山頂上に本丸を築き城下町も整備していましたが、美濃攻めを終えるまでの4年間しか使用せず、岐阜城に拠点を移した後に廃城になりました。

現在の小牧山城は1947年に名古屋市在住の実業家が私財を投じて建設したもので、小牧市歴史館として16世紀当時の面影を現代に伝えています。

名称:小牧市歴史館
住所:愛知県小牧市堀の内一丁目1番地
URL:http://www.komakiyama.com/rekishikan/

姉川の戦い

姉川

天下布武を掲げていた信長に従わない朝倉氏の諸城を攻め落としていましたが、突如として浅井氏に反旗を翻されてしまいました。

浅井長政に嫁いでいたが信長の妹・お市が、挟み撃ちの危機を伝えたことから信長は京に逃れることができたと言われています。

その後、浅井氏を討つべく朝倉・浅井軍と姉川で対峙した織田・徳川軍は勝利し、天下布武へと勢いを増していきます。

名称:姉川古戦場
住所:滋賀県長浜市野村町

長篠の戦い

織田信長本陣跡

武田勝頼軍と織田・徳川連合軍が戦った長篠の戦いは、組織的に鉄砲を使った戦いとして知られています。

騎馬隊を自慢としていた武田軍を阻むために馬防柵を配置し、馬防柵の間からの鉄砲三段撃ちで勝利を得ることができました。

当時の鉄砲は火縄銃で、着火から発砲までに時間がかかることから、鉄砲隊を3隊に分けて効率的に攻撃することで、武田軍の騎馬隊は総崩れとなりました。

名称:長篠の戦い古戦場
住所:愛知県新城市設楽原

安土城に移転

安土城跡

織田信長が丹羽長秀に命じて約3年の歳月をかけて築城した安土城は、標高199mの安土山一帯を占めていました。

安土・桃山時代の幕開けとして築城され、当時の日本最高の技術と芸術の粋を集大成して造られたといわれています。

織田信長が倒れた本能寺の変後に焼失して、現在は石垣だけが残っています。

名称:安土城跡
住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
URL:https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/831/

本能寺の変

本能寺跡

明智光秀が謀反を起こし、織田信長を自害に追い詰めた本能寺の変は、言わずと知れた出来事ですよね。

当時、織田信長はわずかな供を連れて本能寺に滞在しており、豊臣秀吉の援軍に向かわせたはずの明智光秀に突如襲撃されました。

信頼していた部下に裏切られた信長の無念はいかほどだったか、想像に難くありませんね。

本能寺は焼失したため、現在は石碑のみが残されています。

名称:本能寺跡
住所:中京区小川通蛸薬師元本能寺町

まとめ

日本の歴史上の人物で人気No.1の織田信長の年表とゆかりの地についてご紹介しました。

うつけと呼ばれた少年時代から、天下統一を成し遂げ、壮絶な最期を遂げた信長の人生は、なんともドラマチックですよね。

軌跡を辿ることで、信長の人生を少しでも感じることができると思いますよ。

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